- フルネームアルフレド ディ・ステファノ・ラウリェ
- 出身地
- 生年月日04/07/1926
歴代最高のサッカー選手
ポジション:FW
出場試合数:公式戦510
通算得点数:418
スペイン代表:31試合
レアル・マドリード史上最高の選手。攻撃でも守備でも、あらゆるポジションでプレーできた。このピッチ内外のリーダーを得て、エル・ブランコは全盛期に到達。欧州チャンピオンズカップ5連覇という、いまだどのクラブも成し得ていない偉業を達成した。ドリームチームでの活躍により、1957年と1959年にバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を手にしている。 −さらにスーパー・バロンドールを保持する唯一の選手。1989年に受賞したこのトロフィーは、現在レアル・マドリードのミュージアムで観覧が可能となっている。
19歳のときにリーベル・プレートでデビューを果たすと、21歳でアルゼンチンのリーグを制覇。大会得点王となった。アルゼンチン・サッカー界で起きたゼネストによりコロンビアに移住し、ミジョナリオスでリーグ優勝。“サエタ・ルビア(ブロンドの矢)”のプレーは人々を魅了し、マドリードとバルセロナが、この当時世界ナンバー1プレーヤーをめぐって激しい争奪戦を繰り広げたが、最終的にマドリードが契約を結ぶことに成功した。
ディ・ステファノの辞書には「勝利」しかなく、マドリードでのキャリアは成功に満ちたものだった。11シーズンで獲得したトロフィーは18個。公式戦308得点を記録し、クラブのシンボル、そしてファンのアイドルとなった。欧州チャンピオンズカップ決勝ではそのすべてで1点以上を挙げている。
当時のマドリードはスペイン、そして欧州サッカー界を席巻。その中心に君臨していたのがディ・ステファノだった。スペイン国籍も取得してスペイン代表で31試合に出場したが、国際大会の本大会には一度も出場する機会がなかった。
“キンタ・デル・ブイトレ(ハゲワシ部隊)”のドン
監督としては、のちにチームの中心となるカンテラ出身の若手を積極的に起用。ブトラゲーニョ、サンチス、マルティン・バスケス、そしてパルデ が、このアルゼンチン人監督の下でファーストチームでのデビューを果たし、ほどなくミチェルがアマンシオと共にこれに続いた。
最初に率いたチームはボカ・ジュニアーズで、アルゼンチンのリーグとカップと獲得した。その後スペインに戻ってバレンシアの監督に就任し、1971年にリーガで優勝。スポルティング、ラージョ・バジェカーノ、そしてカステリョンなどを率いたのちバレンシアに戻り、1980年にUEFAカップウィナーズカップを制した。
1982年に初めてレアル・マドリードの監督に就任。2年間でチームを作り直し、5つの大会で2位へと導いた。1990年11月にはジョン・トシャック監督 の後任として再び指揮官に復帰。2014年7月7日の死去までクラブ名誉会長としてその足跡を残した
経歴
獲得タイトル(選手):
- 欧州チャンピオンズカップ5回
- インターコンチネンタルカップ1回
- ラテンカップ2回
- スモール・ワールドカップ1回
- リーガ8回
- スペインカップ1回
- ピチチ賞(リーガ得点王)5回(1953-54、1955-56、1956-57、1957-58、1958-59)
獲得タイトル(監督):
- スペイン・スーパーカップ1回