ラモン カルデロン

出身地
Palencia
生年
26/05/1951
1シーズンと少しで、ラモン・カルデロンはマドリディスモへ夢を取り戻すことに成功した。レアル・マドリードの会長としての最初のシーズンに、21年間達成できなかったサッカーとバスケットボールのタイトル獲得を実現。サポーター、選手、コーチ陣、幹部が一丸となって“Juntos Podemos(一丸となればやれる)”を合言葉に、見事な復活を成し遂げた。ラモン・カルデロンは、“Formamos un equipo(一つのチームを構成する)”をスローガンに成功を目指すためのベースを打ち立てた。2007-08シーズンの現在、サッカー、バスケットボールの両チームが首位についており、2つのタイトルを連覇することに狙いを定めている。
ラモン・カルデロンは、1951年5月26日、パレンシアに生まれ、1975年にナバーラ大学の法学部を卒業。その1年後には、弁護士事務所を構えるためマドリードへ引っ越した。幼い頃からマドリディスタで、1979年4月からレアル・マドリードのソシオ(メンバー)である。
1991年、アルフォンソ・ウッシアの推薦によりレアル・マドリードの副会長選に出馬した。その4年後にフロレンティーノ・ペレスの会長選にセクレタリー・ジェネラルとして参加。その頃から、ラモン・カルデロンは近年厳しい時期を過ごしていたレアル・マドリードへ献身する、最も活動的なソシオの一人と認識されてきた。
2002年、100周年の年にレアル・マドリードの重役メンバーに指名された。カルデロンは重役メンバーとなってから、9度目のチャンピオンズリーグタイトル、UEFAスーパーカップ、3度目のインターコンチネンタルカップ、リーグタイトル、7度目のスペイン・スーパーカップの獲得を祝った。カスティージャの2部リーグ昇格にも立会い、バスケットボールチームがACBリーグチャンピオンに輝いた時には、バスケットボール部門の責任者だった。
フロレンティーノ・ペレスが辞任した後会長選が召集され、ラモン・カルデロンは、3シーズン連続の無冠と低迷していたレアル・マドリードのため立候補。選挙に勝ち、2006年7月3日にレアル・マドリードの会長に就任した。カルデロンはまず、ページャ・ミヤトビッチをスポーツ・ディレクターに任命し全権を委ねた。ファビオ・カペッロを監督として迎え、ファン・ニステルローイ、カンナバーロ、ディアラ、ガゴ、イグアイン、マルセロと契約。バスケットボール部門では、ACBリーグタイトルとULEB杯の2タイトルを制覇した。
成功は、スポーツ面だけにとどまっていない。ラモン・カルデロンは、社会面や制度面で大きな推進を図った。UEFAのクラブ大会委員会の副会長に指名され、異なる公的機関(RFEF, UEFA, FIFA)とより密接な関係を築き、ソシオとクラブの関係も改善した。レアル・マドリード財団もラモン・カルデロンの就任とともに恩恵を受け、世界の異なる地域、特にラテン・アメリカとアフリカで事業を成長させている。
フットボール
- 2
同盟
- 1
スペインスーパーカップ
バスケットボール
- 1
リーガACB
- 1
ULEBユーロ・カップ