![](/static/img/cuadrada_300px/galeria-1_20230426083559.jpg)
カナダ人ジェームズ・ネイスミスによって1891年に考案されたバスケットボールがスペインで市民権を得たのは30年後のことだった。1920年代終盤頃から、そのスポーツの魅力が広まると、アンヘル・カブレラがレアル・マドリードにクラブのバスケットボール・セクションを設けることを提案。それをきっかけにチームが生まれ、バスケットボール人気を決定的に根付かせることに。やがてマドリードは伝説のチームと進化していく。
スペイン人ながら、アルゼンチンですでにバスケットのプレー経験のあったカブレラは、レアル・マドリード理事会の許可を得て、ファーストチームの編成に乗り出す。1931年3月8日、ABC紙には次のような広告が載った。「このスポーツをやることに興味がある方はクラブ事務局(カバジェーロ・デ・グラシア、15)に立ち寄って、詳細をお受取りください」
バスケットがスペインで始まった当初は全てが個人の努力によって成し遂げられていった。部門の創始者、カブレラも選手としてプレーしながら、カスティージャ協会の設立を推進。初期のチームメートであったセグンド・ブレニャは1935年に正式な初代監督に就任した。彼らパイオニアたちの熱意により、レアル・マドリード・バスケットボールは軌道に乗ると、徐々にスペインでトップを走るチームとなっていく。
大会に参加するようになったレアル・マドリードは、ラージョ・クラブ・マドリードに出会う。何年もの間、マドリードの覇者を競う最初のライバルだった。3回目の開催となった1933年の第3回カスティージャカップでは彼らと決勝を争い、初タイトルを獲得。22-16で勝利したその試合で主役を務めたのはフィリピン人のフアン・カステルビ。ブラニャ、マキシモ・アルナイス、“タノ”・オルテガ、そして第2共和政大統領の息子、フアン・ネグリンらもプレーした。同年はラージョとスペインカップ決勝でも顔を合わせたが、こちらには勝つことはできず。このライバル関係はラージョが1941年に消滅するまで続くことになる。
スペインでのバスケットボールは当初、屋外のクレイコートでプレーされ、木製のバックボードを使用。選手たちの中にはベレー帽をかぶり、膝当てをし、アルパルガータ(エスパドリーユ)を履いて試合に出場する者もいた。レアル・マドリードの最初のコートはエスタディオ・チャマルティンのスタンドの近くに設けられ、観客はこのエキゾチックなスポーツを見るため、コートサイドで押し合いへし合いしなければならなかった。1939年、チームは今日ではもう残っていないフロントン・レコレトスで試合をするようになる。実際、バスケットが行われたのはフロントンの競技場だけではない。1933年4月にはマドリード代表対リスボン代表の試合を見るため、1万4000人の観客がゴヤの闘牛場に詰めかけた。