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変わらず最高の選手をチームに揃えていたレアル・マドリードだったが、バスケブームの到来により、獲得競争が激化。リーガACBが創設された1980年代に伝説的な選手となったのはフェルナンド・マルティンとドラジェン・ペトロビッチだった。
1983年、バスケットボール・クラブ連盟が創設され、それまで協会が組織していたリーガを引き継ぐ。参加クラブが相当数、増えたため、大会の方式も変更され、史上初めて優勝を決めるためのプレーオフが行われた。
1957年から1983年の間、27シーズン行われたリーガで22回優勝していたマドリードは、リーガACBに変わっても強さを発揮し続ける。1984年から1986年の最初の3シーズンを連覇した。チームではフェルナンド・マルティン、ロマイ、イトゥリアガが活躍。1981年にはバスケット・セクション創立50周年を迎え、周囲も羨むばかりの好調さを維持していた。
クラブ史を通じて、偉大なライバルの存在がチームにさらなる輝きを与えたが、1980年代にクローズアップされたのはドラジェン・ペトロビッチだった。若きクロアチア人選手はツィボナ・ザグレブの主力として活躍、1985年には欧州チャンピオンズカップ決勝でマドリードを倒して優勝すると、1986年には2度のマドリードとの対戦で90得点を挙げた。しかし1988年のコラツカップ決勝ではマドリードに軍配が上がり、ロロ・サインスは3大タイトル(欧州チャンピオンズカップ、欧州カップウィナーズカップ、コラツカップ)を初めて獲得した監督となる。翌シーズン、ペトロビッチはマドリードに入団した。
1988-89シーズンのスタートは期待に満ちていた。マドリードはマクドナルズ・オープンを開催、ボストン・セルティックス相手に好ゲームを披露した。その数カ月後にはバルサを抑えて国王杯に優勝。しかしクライマックスは1989年3月14日にやって来る。欧州カップウィナーズカップ決勝でオスカー・シュミットを擁するスナイデロ・カセルタと対戦したマドリードはドラジェン・ペトロビッチが62得点を挙げる大活躍。117-113で相手を下し、優勝を遂げた。
15年間監督を務めた後、1989-90シーズン初頭にロロ・サインスはクラブのテクニカル部門に移る。後任監督にはNBAで指導経験のあるジョージ・カールが就任した。逆にドラジェン・ペトロビッチはNBAへの移籍を選んだため、チームの中心はフェルナンド・マルティンに移る。しかしそのマルティンが1989年12月3日、パラシオ・デ・デポルテでの試合に向かう途中に交通事故に遭って帰らぬ人に。マドリードのセンターの死はスペイン中に衝撃を与えた。シウダード・デポルティバに設置された礼拝堂には数千人のファンが駆けつけ、レアル・マドリードは彼の背番号、10番をチームで唯一の永久欠番にした。