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植民地出身の様々な選手たちの助けもあり、レアル・マドリードは1942年から1944年の間にカスティージャカップで3度優勝する。マドリード最初の栄光の時代だった。ただし、スペイン国内のバスケットチームとして、その地位を確立したマドリードが、覇権を握るにはキッカケが必要だった。そしてそれはほどなく到着する。
スペインで広まるのが遅かったバスケットボールだが、スペイン内戦の勃発がさらに浸透にブレーキをかける。終戦後はレアル・マドリードとラージョのライバル意識が再燃。しかし、後者は1940年代初頭に解散してしまう。その結果、ペドロとエミリオのアロンソ兄弟、その従兄のクラウディオが入団。恐れられたライバルから、力強い味方となった。
キューバ系のアロンソ兄弟の貢献はレアル・マドリードのカスティージャカップ3連覇(1942、43、44年)をもたらした。チームは1949年代後半にも再び3連覇(1948、49、50)を成し遂げ、スペイン中央部では向かうところ敵なしとなる。しかし、あと一歩が足りなかった。
この時期、多くの選手はフィリピン、キューバ、プエルトリコといった出自を持っていた。大学教育を受けるため、マドリードに来た移民の息子たちにはバスケットを知っているという強みがあったからだ。カナダとアメリカで生まれ、発展してきたスポーツは、スペインより結びつきの強い彼らの国に先に到着。フアン・カステルビ、エディ・エルナンデス=ビジャミル、カイモはフィリピン人、フレディ・ボラスはプエルトリコ人、ペドロ・エミリオとクラウディオ・アロンソはバスク出身の両親の下、キューバで生まれた。初期の獲得タイトルには彼らの印が残っている。
1934年にはレアル・マドリードに新たなセクションが生まれる。女子バスケットチームだ。独自のリーグを持ち、男子バスケットとは異なる規則が用いられた。プレーする選手は5人ではなく6人、コートは3つに分けられ、ポジションによって参加するゾーンが固定。ドリブルもボールをつくのは1回に制限されていた。チーム設立の年、レアル・マドリード女子はカスティージャカップで優勝。1843年には同大会に加え、スペインカップで準優勝を果たしたが、女子セクションは翌1944年に廃止された。