国王主催のレアル・マドリードチャリティーマッチ (1914)
国王アルフォンソ XIII と王妃ビクトリア・エウへニアはレアル・マドリードとトレド歩兵隊アカデミーの選手たちとのゲームに出席。このゲームはモロッコの戦争で犠牲者となった家族をサポートするために行われたチャリティーマッチで、レアル・マドリードが5-3で勝利した。
サッカーは発祥の地イングランドから、スペインに新しいスポーツとして伝わった。19世紀末に広まると、20世紀初頭には最初のサッカークラブが出現。その一つ、マドリード・フットボール・クラブが現在のレアル・マドリードの母体となる。当初はフリアン・パラシオスをリーダーとするサッカー愛好家のグループとして始まったが、フアン・パドロスが公式にクラブとしての組織を1902年に設立した。ファンの支持も急速に増え、マドリードはアルフォンソ13世へ敬意を表す大会の開催を提案。やがてこの大会はスペインカップとなって実現することになる。
創設から最初の数年はフアン・パラシオスが統括役を務め、1900年にはマドリードのファーストチームを構成するメンバーを決めるために総会を開催。その後、パドロス兄弟が後を継いだ。サッカーは人の集まるところ、多くで話題の中心となり、愛好者の数も飛躍的に増加。マドリードは1902年3月6日、フアン・パドロスを長とする理事会の下、クラブとして発足した。
当時の野心的な役員の一人、アルベルト・アギレラはアルフォンソ13世に敬意を表す初のサッカー大会開催をマドリード市長に提案する。5つのクラブが参加して、競馬場で行われたこの大会からスペインカップが生まれた。マドリードは最初の6大会で4度優勝し、この時以来、勝利がクラブのアイデンティティとなった。
生まれたばかりのクラブの最初の数試合では、マドリードの旧闘牛場に隣接した敷地にあるパドロス兄弟の部屋がその舞台の一部となった。何度なく繰り返された、その部屋でのサッカー談義の中、常に言葉を発したのがスペインに居を定めたイングランド人、アーサー・ジョンソンだ。ファイルを片手にミスター・ジョンソンは、自身が「サッカーをより良く発展させるためのスローガン」と見なす言葉を披露する。そんな偶発的な成り行きで、やがてジョンソンはマドリードの初代監督となった。
サッカー人気が高まるにつれ、カルロス・パドロスは新たなアイデアを思いつく。国際試合の開催だ。費用を全て負担して、ガリア・スポルト・ド・パリを招待し、フランス王者とスペイン王者の対戦が実現した。競馬場での90分間の戦いは1-1の引き分けで終了。両者は次回、フランスでの対戦を約束した。
20世紀最初の10年間はスペイン国内の大会組織で問題が生じ、クラブ間の信頼関係も欠如。その辺の事情を踏まえ、1909年にはスペイン・サッカー協会が設立されることになる。ただし、設立総会で立ち上げは満場一致で認められたものの、その初期の運営は困難を極めた。