アクションの中心にいるサンティアゴ・ベルナベウ
レアル・マドリードFW時代(1912年〜1927年)のサンティアゴ・ベルナベウが、ラシン選手ガンサリトとボールを競い合う。当時の英雄的な時代の最高のMF2人の戦いだった。
スペイン・サッカーが困難と不安定さに満ちていたこの時期、レアル・マドリードもその例外ではなかった。しかし理事たちの手腕でこれを乗り越える。ファンの数の増大にフィールドを移転する必要性を認識、より多くの入場者を迎えて収入を確保する道を選んだ。そしてオドネル・スタジアムへの移転が実現する。クラブの威信はますます高まり、1920年にはスペイン国王から「la Mayordomía Mayor de S.M」に任命され、「レアル」の称号を授けられるまでに至る。
サッカー協会の設立は危機に対する即効的な対処法になると誰もが思ったが、そうではなかった。各クラブはそれぞれの利益を追求し、一方で協会を支持する者もあれば、他方では平行して類似の組織、クラブ連盟の一員となる者もあった。マドリード内でも失望感が支配的となり、理事会がアドルフォ・メレンデス会長の「辞任」を回避する事態まで生じる。
しかし、大会や組織の二重性はサッカーへの期待感を削ぐことにはならない。ファンたちは応援するチームを見るためにピッチに足を運び続けた。オドネル・スタジアムへフィールドを移転したマドリードはプロフェショナル化への第一歩を進める。より多い観客、より多い収入は、選手を獲得するためのより大きな予算となった。新しいホームは5000人の観客を受け入れることができ、マドリード市最良のスタジアムだった。
1915-16シーズンはスペインカップにおいて、輝かしい成績を収める。準決勝でエスパニョール相手に劇的な勝利を掴むと、決勝ではアスレテティック・ビルバオに予期せぬ敗北を喫して準優勝に終わった。この決勝の結果は尾を引き、数日後、理事会メンバー全員が辞任を表明。アドルフォ・メレンデスが去り、ペドロ・パラヘスが会長を引き継ぐことになった。しかしトップの交代は功を奏し、翌シーズンのマドリードはスペイン王者に返り咲く。
当時のサッカー協会とクラブ連盟の小競り合いを見かねたスペイン国王、アルフォンソ13世が仲介を決意。協会長であるフアン・パドロスの訪問を受け、協会がスペイン・サッカー唯一の統括組織であることを確認すると同時に、クラブ連盟には「融合して古い軋轢を忘れる」ことを依頼する。スペイン・サッカー界を軌道に戻す和解が成立した瞬間だった。
統括組織、代表権などの問題が解決し、全てが正常に戻った頃、マドリードには偉大なサッカー選手が登場する。チームのキャプテンとなったサンティアゴ・ベルナベウはクラブの顔へと成長。その後、ラ・マンチャ地方出身の頑健で得点能力に秀でたFWはクラブを先頭に立って率いていくことになる。
この時期、それほどタイトルに恵まれなかったマドリードだが、変化は1916-17シーズンに訪れる。厳しい準決勝を勝ち抜いた後、決勝では強豪アレナス・グエチョと対戦。アーサー・ジョンソン監督率いるチームは延長戦で勝利し、トロフィーをクラブの陳列棚に戻した。