ホルヘ・バルダーノ、ファビオ・カペッロ、ビセンテ・デル・ボスケ)の3人がこの時代を象徴する名前となる。彼ら、3監督はスペクタクルなプレーでリーガや欧州カップ戦を制覇。1990年代にはレドンド、ラウドルップ、セードルフ、シュケル、ミヤトビッチ、ロベルト・カルロス)らが入団と、タレントある選手たちにも事欠かなかった。
テネリフェで指導者としての手腕を示した後、バルダーノは1994年にレアル・マドリードに監督として帰還。レドンド、ラウドルップ)、アマビスカ、カニサレスらを新たに加えたチームはそのシーズン、リーガ優勝を遂げる。ラウールが10月29日に17歳でファーストチームデビューを果たしたシーズンでもあった。マルティン・バスケスに代わって、ラ・ロマレダでのサラゴサ戦に出場したラウールは見事なプレーを披露。新たなレジェンドがここに始まった。
1995年初頭、バルダーノ監督率いるレアル・マドリードはサンティアゴ・ベルナベウでヨハン・クライフ監督のバルサに5-0と大勝する。TV中継されたこの試合は1000万人の視聴者を惹きつけた。しかし1995-96シーズン自体は低調に終わったため、ロレンソ・サンスは欧州サッカー界で評価の高いファビオ・カペッロを監督として招聘。セードルフ、シュケル、ミヤトビッチ、ロベルト・カルロスらの新入団選手やラウール、イエロ、レドンドらを配下に置いたイタリア人監督はこのシーズン、リーガ優勝を果たした。
1998年5月20日はマドリー史において極めて重要な日付だ。ユップ・ハインケス監督に率いられたチームは32年ぶりにヨーロッパの頂点に戻る。決勝でユベントスを下して、チャンピオンズリーグ優勝を果たした。アムステルダム・アレナでの試合は66分にページャ・ミヤトビッチが決勝点を挙げて、7度目の欧州制覇を達成。同年はフース・ヒディンク監督の下で2度目のインターコンチネンタルカップも掲げた。
1999年には、それまでマドリード一筋で過ごしてきたビセンテ・デル・ボスケがファーストチームの指揮官に就任。サラマンカ出身の監督はチームに自身のサッカー哲学を定着させると、まずは2000年に通算8度目となるチャンピオンズリーグ優勝を果たす。この年に会長となったフロレンティーノ・ペレスは世界最高選手の一人であるルイス・フィーゴを獲得した。
1992年4月2日、クラブのレジェンドの一人、フアニートが交通事故により没する。サンティアゴ・ベルナベウでUEFAカップのレアル・マドリード対トリノを観戦し、自らが監督を務めるメリダへ帰還する最中のことだった。常にホームスタジアムの寵愛を受けていた背番号7は現在でも忘れられておらず、ベルナベウでは試合開始7分に「イジャ、イジャ、イジャ、フアニート・マラビージャ(素晴らしいフアニート)」という掛け声がスタンドから聞こえてくる。
1991-92シーズンのUEFAカップでレアル・マドリードはオランダの伝統を一つ破る。ルーストのオウンゴール、プロシネチュキ、ビジャロジャの得点により、ウトレヒトを3-1と下し、10年以上続いていたオランダのチームは欧州カップ戦のホームゲームで決して負けないというジンクスに打ち勝った。
50以上のタイトルを獲得してきたレアル・マドリードは1998年、FIFAに「史上最高のクラブ」の称号を贈られる。ディ・ステファノとプスカシュは史上最高の10選手の一人に選出され、ロベルト・カルロス、ラウール、シュケル、ミヤトビッチは1997年の最優秀選手18人の中に入った。2000年にチャンピオンズリーグ王者に再度輝くと、「20世紀最高のクラブ」にも選ばれた。
2000年7月、現役、監督時代を通じて12年間クラブに仕えたアルフレド・ディ・ステファノがレアル・マドリードの名誉会長に指名される。フロレンティーノ・ペレス新会長率いる理事会最初の会合での決議だった。上級ソシオ総会も11月5日にこの決定を承認している。